
新潟居留地事例研究
- 新潟居留地研究会 ホ-ムペ-ジ

- 11月18日
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更新日:6 日前
「赤十字精神と明治初期の医療と看護」新潟居留地研究会・白砂誠一
今回のテーマ「医療と福祉」について、新潟港開港(1869/1/1)の直前に、会津戦争で活躍した英国人医師ウイリアム・ウイルス(画像 A)の働きを通して日本のナイチンゲールと呼ばれた新島八重の生涯に大きな影響をもたらしたと筆者は考えている。新島(旧姓山本)八重は 1845 年、会津藩の砲術師範を務める山本家に誕生する。旧幕府軍・奥羽越列藩同盟と新政府軍との内戦である戊辰戦争(1868)が始まるが、最終局面である会津 戦争(1868)において、八重は男装して会津藩の居城である鶴ヶ城に入城し、自ら銃を携えて新政府軍と戦い、戦傷者の救護も行うが、約 一か月の籠城戦の後、会津藩は降伏し戊辰戦争は終結、明治の世となった。兄である山本覚馬はその優秀さを新政府に認められ京都府顧問となり、鉄工所や製紙工場などを運営し、教育にも関わる。1871 年、八重は兄覚馬を頼って京都に移住し、京都府が開設した女子中等教育機関である「女紅場で礼法や機織を教えるとともに英語を学ぶ。そして 1876 年、山本八重(画像 B)は同志社英学校(後の同志社大学)を設立した新島 襄と出会い結婚する。しかし、二人の結婚生活はわずか 14 年と短く、1890 年に襄は 48 才の若さで逝去する。その翌年、新島八重は日本赤十字社の正社員となる。八重は日赤篤志看護婦人会京都支会に入会する。その八重は日本のナイチンゲールとも称される看護婦となる。この英国人医師に同行した高田藩士の中に後にその弟子として外科医師となり高田で病院を創設した日本人医師がいる。瀬尾玄弘 (画像 D)という高田藩医である。彼が東京大学でウィルスから医学を学んだ際に知り合った大関和が偶然にも高田基督公会(現日本基督教団高田教会の前身立 1890)に信徒伝道者として赴任してきた彼女と再会する。この大関和(画像 C)は女子学院で女性宣教師マ
リア・·ツル-から英国人看護婦ナイチンゲールの近大看護学を学んだ看護師であり瀬尾医師が始めた病院で助産婦(産婆)看護師の育成に携わるのであった。この大関和も日本のナイチンゲーと称されたのである。(日本基督教団牧師)
参考自著 1.「宗教改革と新潟の近代化」 2.しらすなせいいち居留地研究アメバブログ
参考文献:1.吉海直人の八重講座ウィリアム・ウィリスを知っていますか(八重講座番外編)2025 年 01 月 02 日 2.鹿児島大学医学雑誌 第 47 巻 補冊 1 93~97 頁 「明治元年,越後・会津へのウィリスの従軍―医療が残したもの」中澤剛 3.赤十字リポジトリホームページ「会津から京都へ 日赤篤志看護婦新島八重の生涯」日本赤十字社医療事業推進本部長 渡部洋一(以上)4.医療法人 知命堂病院広報誌 2024年9月号 Vol.35
(A)William Willis, 1837 – 1894(B)新島八重 1845-1932
(C)大関和 1858 - 1932
(D)知命堂病院のあゆみ(知命堂病院 150 周年記念写真展)より(瀬尾玄弘は最右画)像*本ブログヘッダー写真参照




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