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新潟居留地事例研究

  • 執筆者の写真: 新潟居留地研究会 ホ-ムペ-ジ
    新潟居留地研究会 ホ-ムペ-ジ
  • 11月18日
  • 読了時間: 3分

更新日:12月4日

新潟湊開港に伴うプロ テスタンティズム事 例報告 」新潟居留地研 究会所属 白砂誠一 今回の全国居留地研究会の主題が「医療と福 祉」ということでその主題に関わる 個人的な研究成果として報告したい。

 雑居地である新潟で医療の近代化が始まったが、その近代化はエディンバラ医療宣教会( EMMS) から派遣されたスコットランド人、セオボールド・エイドリアン・パーム(Theobald Adrian Palm1848-1929)宣教医師によって新潟県各地に診療所(13箇所)が設けられたが(参照『宗教改革からのメッセージ』― 宗教改革と新潟の近代化― (第三版))、2023年に『「 村上教会基督教会八十年の歩み~明治十一年から昭和三十七年迄に紹介された伝道開始記録についての一考察~』(第二版)*で紹介した伝道開始に関する議論を今回の報告で改めて紹介したい。問題の核心はパーム宣教師と押川方義がそろって村上小町にあった旅籠宿坂田屋で集会(礼拝等)を始めたかどうかである。と言うのは、当時の国内旅行においては、外国人徒歩規定( 25 mile = 40 k m ) があったために新潟湊・旧新潟税関所(運上所)から海路で直線距離 40 k m に瀬波湊があったが、陸路では規定外でありパーム氏は許可書を取得する必要があった。そんな状況にあってコレラ菌による感染が日本全国に広がったのである。明治政府の樹立後(1868)まもなく新潟湊が開港(1869.1.1)されたが未だ内紛が続いており鹿児島での西南戦争 (1877)に明治政府は勝利するために招聘した米国軍隊がコレラ菌を持ち込んだのである。もちろん政府による兵士の応募があり新潟・村上でも警察官が西南戦争に参加した記録があるが政府側の勝利によって帰還している。しかし、すでに函 館など全国でコレラ菌による感染が拡っていた。新潟県は瀬波湊に停泊する回船からのコレラ菌によって村上小町の感染を警戒していたと想像できる。さらには東北各地からの汚染の知らせが届いており、陸路からの感染した旅人によるコレラ菌の感染をおそれていた。そんなおり、パーム氏はその感染状況の把握に努めようと徒歩規定外の調査旅行を外務省に申請することを考えたことは容易に想像できる。そのような申請記録が残っているかは不明であるが、パ ―ム氏が押川方義を伴って村上に出掛けたかどうかを『村上教会歴史』(1887)の冒頭部分の伝道開始に関する記載文(下記参照) から論じておく。


耶蘇降生千八百七十八年明治十一年五月富国新潟港在留英国プロテスタント伝道会社派遣宣教師兼医学師ジョーバードエエパーム氏伝道者伊与国松山士族押川方義氏ナル者両氏当国北蒲原郡宮高瀬村榎本孝三郎ノ導因リ(第二中条町病院会計 係)村上小町旅籠屋坂田屋坂田桀太郎方に止宿門家を仮講義所と成し布教す(以下省略)。


 この冒頭文で村上小町の坂田旅駕宿に止宿したのは押川方義だけであったかどうかが問われている。私見では道案内を命じられた者との意味で「ナル者」を解すると両氏が道案内を命じられた榎本氏に導かれて坂田屋に案内されたとの意味に解せる。だが、小林敏志氏は冒頭部分のパーム氏の紹介文も含めて押川氏の紹介として押川方義「ナル者」と解することが出来るとしている(*前掲書コラム2参照)。この点について、新潟居留地研究会で議論したことがある。前掲書*で具体的な議論内容に触れている。その伝道開始時からパーム氏が実際に関わったかについては議論があるものの現在、日本キリスト教団村上教会として147周年を迎える中、伝道開始100周年記念事業として幼児教育事業を始め、現在も地域に貢献している。参考『日本基督教団村上教会伝道開始140周年記念誌』(2018/編纂:著者)◎実際の「村上教会史」(1887)の伝道開始における記録文さ参照して下さい。

*本ブログヘッダー写真を参照して下さい。




 
 
 

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