会報第四号
- 新潟居留地研究会 ホ-ムペ-ジ
- 2022年2月2日
- 読了時間: 57分
更新日:2022年3月9日
<目 次>
<1> 北越学館の教― 館長 加藤勝弥を中心にして 報告者 鈴木孝二 (3頁)
新潟居留地研究会 第1回研究報告 2020年11月7日(土) 於:敬和学園大学
<2> E.R.ミラー著「アメリカ改革派教会の北日本伝道記録(描写)」(上)(Ⅰ序文/Ⅱ福音伝道の記録)翻訳者 白砂誠一(7頁)
(原書)E Rothesay Miller;”Sketch of the North Japan Mission”1901.NEW YORK(R.C.A.)
<編集後記> 事務局:白砂誠一 (24頁)
<付 録> 1.新潟居留地研究会会員名簿(2021年4月1日現在) (25頁)
2.新潟居留地研究会規約(2021年4月24日発行) (26頁)
3. 新潟居留地研究会募集要項 (27頁)
4.第13回全国居留地研究会新潟大会2021(2021年9月17日~18日) (28頁)
<参考資料>
2018年3月25日に板屋沢の加藤勝弥の墓地で関係者と墓前礼拝を行った。司式:白砂誠一(右から三人目:本誌・編集者、前日本基督教団村上教会牧師)鈴木孝二氏(右から一人目)編集者の後ろに加藤家の墓碑が見える。加藤勝弥は村上日本基督教会で母、妻と受洗(1884)。加藤勝弥の生家近くの民家で開拓伝道行われ板屋沢で伝道教会設立 (1908、村上教会30周年祝会開催)。
*参考文献『日本基督教団村上教会伝道開始140周年記念誌2018(編集者:白砂誠一)』
(墓前礼拝) (生家跡)
事務局(記)
<1> 北越学館の教育と経営 ― 館長 加藤勝弥を中心にして 報告者 鈴木孝二
新潟居留地研究会 第1回研究報告 2020年11月7日(土) 於:敬和学園大学
はじめに
キリスト教主義男子校として開校した北越学館(1887-1893年)は、生徒数200名余の在籍数など、一時期隆盛期を迎えるが、内外情勢変化でわずか6年余で閉校となる。
すぐれてキリスト教主義教育、リベラルアーツ教育を実践しながら、なぜかくも短命に終わってしまったのか。そこにはさまざまな要因がある。その中の一つに館長 加藤勝弥の動向がカギをにぎっていたと考える。今回、その所をこれまでの研究成果文献などより考察してみたい。
そこには、報告者がかつて敬和学園高校での教師時代(1972年4月〜1999年3月在職)と基督教独立学園高校での体験(1999年4月〜2011年3月在職、内2005年度〜2007年度第4代の校長=理事在住)が、一つの見方をつくり出していることを了承してほしい。明治期の時代状況と現代の違いを思いつつも考察してみたい。
Ⅰ 北越学館の開校 ― 1年目、順調な出だし
・本井康博著『近代新潟におけるキリスト教教育 ― 新潟女学館と北越学館』
2007年刊、所収論文「宣教師が見た北越学館」を主に参考として。
1. 阿部欽次郎の動向
(1)北越学館開校前のこと―私立新潟英学校の動き
1885(明治18)年、生徒2人を教師助手にして、17人の生徒で(私立)新潟英学校を始める。2年後、200名の生徒を収容出来る大きな校舎を購入、80名の生徒と共に移る。(寺裏通一番丁)。
(2)キリスト教主義学校の必要性を痛感 ― 民衆の大学つくりへ
S.R.ブラウンの感化を受けた阿部欽次郎の信仰心は一段と深まり、後受洗する。そこより、D.スカッダーに英語とキリスト教を生徒に教えてほしいと依頼する。
また、新潟第一基督教会(現・教団新潟教会)牧師成瀬仁蔵には、聖書研究会を開催してほしいとたのむ。キリスト教主義学校の必要性を覚え、自分の全財産をそのために献げても良いと決意するまでとなる。
2. 加藤勝弥の登場、東京から新潟に帰り尽力する
村上教会で受洗した加藤勝弥(1854-1921)は、東京へ転出する。数寄屋橋教会、市ヶ谷教会で長老として任を負う。そこで海軍軍人(アメリカ留学の体験あり)の世良田亮と出会い、青少年の教育の重要性に目覚める。加藤は渡米を断念して新潟に戻る。(年33歳)。そこからキリスト教学校建設に動き出す。
同じくキリスト者資産家五泉の松田国太郎と会い、共働で財政面の重荷を担う。加藤勝弥は市ヶ谷の土地を担保(評価二千円)に、北越学館の金銭面を支える。また、県会議員時代の人脈を動かし、有力政治家を「発起人」(創立者)として取り込むこととする。この点で、北越学館は、他の同時期のミッションスクールと違って独自の存在基盤のもと開校するに至る。
「北越学館略則」など参照して確認してほしい。
3. 北越学館の開校、県下最初のキリスト教主義男子校
1887(明治20)年10月15日、私立新潟英学校を校舎にして「北越学館」を開校する。宣教師報告では、ノース・クロシング・カレッジと呼びその教育レベルを表現している。
(1)校舎・寮・食堂・礼拝堂は夏中に建設される。
・『宣教研究』No.1 1968年刊所収「明治二十年代におけるキリスト教主義学校の一側面―北越学館・新潟女学校について」(以下、「宣教研究」No.1として引用)のP.56下段に次の記述がある。
"明治二十年十月十五日「北越学館」開校式を挙行した。この開校は約三千円の有志寄附によって新潟英学校を修復し、寄宿舎・食堂つきの校舎を建立し、三・五エーカー(約4200坪)の土地を無償で加藤勝弥及び友人が譲渡されて成ったものである。所有する図書八〇〇巻、当時としては驚異的な設備であった。" (下線は筆者による。)
既存の新潟英学校を活用しつつも、大々的に修復している様子がわかる。しかし、翌年9月、学校町へ移転するのである。そのことが予測されているのであれば、はたしてここまで費用をかける必要があるのか疑問が残る。
(2)D.スカッダーの尽力で米国伝道会社(アメリカン・ボード)より多数の宣教師、外国人教師が派遣され新潟に到着。
・1887(明治20)年9月9日、G.E.アルフレヒト夫妻着任。
・ 同年 10月8日、 E.C.ケンドール、H.M.スカッダー夫妻、L.グレイブス、H.B.ニューエル、C.ジャトソン着。(下線部の人、北越学館教師となる)
彼等と日本人教師が力を合わせ、開校後の授業を担当する。教頭が決まらず館長加藤勝弥も授業を担ったという。
※日本人教師:校長阿部欽次郎、英語(通訳兼務)同志社卒中島末治、和漢学児玉金八郎(成章)、数学カガミ氏、後ヤマモト氏など。
(3)館長 加藤勝弥と財政状況について
①館長 加藤勝弥について次の記述があり、高い評価を受けている(P.139下段)
「加藤勝弥氏は、館長として至難の立場に立つ人物として、適任であることがわかりました。そして、彼の気前の良さばかりか、その活動力や商才、影響力、知名度もまた、学校の成功に大いに貢献してくれました。二千円ものすばらしい寄附だけでなく、彼は一年を通して終始、自分の時間をすべて無償で提供し、熱心をこめて一心に働いてくれました。」加藤勝弥の人柄、姿勢が伝わってくる内容である。
②財政について、次の記述がある。
「神の恵みを受けて、人々の共感が着実に拡大し、したがって生徒数も寄附も増大いたしました。(中略)今年(1888年)の三月までには、収支が均衡し、三月一日以来、授業料収入で学校の全支出をまかなった上、月二十円の剰余が出るようになりました。生徒が増加するのに比例して、収入も増えていますので学校財政の将来は保証されています。校友の寄附金は今後は全部、新しい建物や改良工事、基金などに使えます。」
そこにT.A.パームよりの献金によるT.A.パーム奨学金の設置や、アメリカン・ボード所属の組合教会(アメリカ各地)の献金支援のこともあって、前途が明るいことを紹介している。
まさに開校一年目は、教頭不在ではあるが、きわめて順調なすべり出しをしている。特に、外国人教師の存在の大きさが、入学者の増加にしっかりとつながっていることがうかがえる。
Ⅱ 北越学館開校 ―2年目、学校町移転と内村鑑三仮教頭就任
そして、「北越学館事件」の勃発
先出『宣教研究』No.1のP.57に次の記述がある。
"北越学館は学則によると「北越有志者ノ設立並ニ維持ニ依ルモノニシテ基督教主義ヲ以テ高等普通教育ヲ施ス」とあり、キリスト教主義を標榜した。「学科は専ら英語漢文数学に力を注ぎ普通学部全部を英語にて教授し」高等中学校(注 カレッジと自称していた)程度の課程を教授した。校運は日々隆盛となり他府県から来たり学ぶものも多くなった(「新潟市教育一班」)。学館はそのため学校町の丘陵に土地二町歩を購入し、校舎を三千円で新築した。校舎は三間十五間の総二階建木造作りであった。明治二十一年春からは若い人の熱望にこたえて夜学校をも開設し、教師には官吏を充てたりした。したがって開校当時において学生数八〇人、教師数八人(内四人は外人)であったものが、二十一年春には学生数一五五名、夜学生三三名を算し、漸次三〇〇余にも上ったと称せられた。ここん理事会は六月、米国より新帰朝内村鑑三を聘して教頭とした。新潟赴任は九月である。"
1 1888(明治21)年9月10日(日)※ 午後2時より新築落式した学館の開館式と、内村鑑三(仮)教頭の就任式を挙行。(※ 鈴木範久氏の見解参照)
2 同年10月15日(月)、内村鑑三「意見書」を提出、「北越学館事件」起こる。その経過と内村鑑三辞任と帰京のこと。(沢山の研究論文有り)
3 館長 加藤勝弥、成瀬仁蔵等の対応(特に成瀬氏の「意見書」注目。)
Ⅲ 二代目教頭 松村介石の就任とその後
1 1889(明治22)年4月15日、松村介石、白木(後に麻生)正蔵と共に着任。松村介石二代目教頭となる。氏の働きによって北越学館の隆盛期を迎える。しかし、教育方針で第二の「北越学館事件」が起こる。(キリスト教主義教育からの離脱と考えられる。)
2 1890(明治23)年8月20日、加藤勝弥館長(主)辞意、9月6日、松田国太郎新館長(主)となる。
3 1891(明治24)年クリスマス頃、加藤勝弥の経済的問題で、北越学館を支えることが出来なくなる。教職達の離脱がおきる。北越学館一度解散する。阿部銀次郎が全て(負債をも含めて)を引き受けて再出発する。
4 1892(明治25)年2月14日、「北越学院」と改称する。校長阿部銀次郎氏。生徒数激減する中再び回復するも、県立中学校の開校などで再度悪化する。1893(明治26)年4月1日、新潟女学校と共に休校宣言をする。(事実上の閉校宣言)、この時、加藤勝弥はどのような立ち位置にいたのか不明であるが、無念の思いであったのではないか。
阿部銀次郎のその後も厳しいものがあった。(時に乞食をしていたとの記述もある。)
館長加藤勝弥は、自分の持てる力、財産(歳費も含めて)も入れて北越学館に献げ尽くしたが、学校を持続して行くことが出来なかった。当時は公費助成など全くなく、私立学校の置かれた状況の厳しさが見えてくる。
<2>「アメリカ改革派教会の北日本伝道記録(描写)」(上) 翻訳:白砂誠一
*原書:E Rothesay Miller; ”Sketch of the North Japan Mission” 1901.NEW YORK(R.C.A.)
(Ⅰ部:序文 Ⅱ部:福音伝道の記録)
Ⅰ 序 文
1859年(安政6年)に我々の最初のミッション(R.C.A)が来日した時、日本はちょうど外国との交流を始めたところであった(註1)。しかし、この交流はごくわずかな人々に熱心に受容されたものの、さらなる啓蒙を受容されるごとに反発された。そして、身分の最も高い人から最下層の人に至るまで、控えめに言ってもキリスト教(信仰)を疑いの目で見ていた。さらに、人々は、キリスト教は堕落していると考えていて日本の道徳に対する脅威と考えた。しかしながら、1873年(明治6年)に岩倉公爵の使節団が戻ったのち、政治家たちは、新しい近代化において他の国々からはるかに取り残されている事実に気付いた。そして、できる限り早く近代化を導入することにより、この遅れを取り戻そうと熱心に吸収しようとした。彼らは、出来るだけ迅速に、西洋文明で咲いた花や実った果実を吸収し受容しようとした。が、西洋文明の本質的な部分を理解しようとは思わなかった(註2)。使節団の帰る前、1873年1月の初めに、時間を計算する方法が変えられてグレゴリオ暦が採用された。そして、1873年2月には明治政府はキリスト教禁教の高札を取り除いた(註3)。なぜなら、国民が政府の形式的な対応の意図を理解できると判断したからである。が、そのことが将来において、国民がキリスト教(信仰)を受容することになるきっかけであったと言えるであろう。
その時から、その国の進歩はあらゆる先例を超えていた。1876年(明治9年)3月3日から日曜日が一六日(毎月の日付で1と6が入った休日(註4))に代わって明治政府の休日とされた。鉄道と電信が同時に、そして電話と電灯がやはり同時に導入された。軍隊と海軍は完全に再編され数と効率の点では外国の軍隊の編成となった。天皇が独裁的に支配するのではなく、法律が人々の日常生活の規律になった。あらゆる法律が成文化され、有効な法律となった。また、学校制度が再編されて拡張されて、専門大学と総合大学が設立された。また、多くの女学校が国中で始められた。そして何年間も計画し、望み、待った後に、ようやく日本の自治は他の国々との相互利益の条約において容認された。この素晴らしい計画すべてが40年間という短期間の中で実行されてきた。このことは、実現するとすぐに消えてしまう夢のようだと、我々は疑いを持たざるを得ない。これらの近代化の外面的な兆候はその国の渇望を満足させるとともに、西洋のことを学ぶことが心に適った最も良いことであった。そして、期待されていたものの、植民地が受容してきた科学のほとんどはまったく理解されることはなかった。そしてその結果は、多くの本や雑誌の中にしばしば見られように嘘と同じほどの半面の真理であった。もちろん、その研究で頭角を現し国からの誉れを得るほどに、自分から学び、経験してきた真の学者たちもいた。このようなすべてが考慮されるなら次の事が分かるだろう。日本におけるアメリカ改革派教会のミッション(R.C.A)がこの近代化の初期である明治初期に設立され、その明治初期の近代化(文明開化)とともに伝道が拡大され共に成長することになったが、そのキリスト教(信仰)を国民に広げるともに拡大され近代化(文明開化)と共に成長することになった。そのキリスト教(信仰)を国民に広げると共に理解力を深めることになる要因(文明開化)が準備されたのである。私たちの伝道の拡大は、この国の近代化(文明開化)と分け隔てることはできない。それゆえ、日本におけるキリスト教(信仰)の幕末から明治初期の拡大はそれ以後の遅さと同様に遅い。伝道の歩みの中で生じたそのような遅延は、その国の中で同時期に起こっていた近代化と深く結びついている。言いかえれば、日本で始まった近代化(文明開化)の遅延の歩みは、私たちの伝道の遅延の歩みでもあると言える。
1889年(明治39年)までのアメリカ改革派教会(R.C.A)の南日本伝道は「日本伝道」(無教派的な海外宣教団体“Board”による“JapanMission”)を構成する一部分であった。しかしその年、アメリカン・ボード(註4)の意向により日本伝道は各教派によるものとなった。1889年までの南日本伝道の歩みと宣教師の働きが、1899年にニューヨークで発行された「南日本伝道の記録(描写)」(”SKETCH OF THE SOUTH JAPANMISSION”REVISED AND ENLARGED.NEW YORK.1899(R.C.A))に報告された。これらの伝道記録はアメリカ改革派教会(R.C.A)による日本伝道の序文である。あらゆる伝道活動は、キリストの福音を知らなかった魂に救済の知識を知らしめることである。救済の知識、つまり真の救済の知識の伝道は、この伝道活動の多くの活動において未だに明確に記憶されている。しかしながら、これらの多様な伝道活動は絡み合い重複しながらも、まさに伝道活動としての適切な進歩を得ている。我々はこの伝道の多様な活動の進歩と成長を知るだろう。しかしながら、最初から伝道活動において教育、伝道、文学、医療のような区分はなかった。実際、最後に挙げた医学の事業は、日本では決して我々の伝道として実行されなかった。というのは、シモンズ博士が我々のミッション(R.C.A)から最初のひとりとして送られてきたが、翌年彼はミッション(R.C.A)を去り、その代わりは与えられなかった。そして、日本の開国まもない段階の時に医療事業の良い機会があり、ミッション(R.C.A)の何人かは熱心にそれに加わり彼らの働きは成功に終わった。しかし、政府により行われた最初の段階の一つである医療学校、すなわち今日でも外国の内科医師により経営管理されている医療学校の設立によって、今日ではあらゆる大きな町や村の多くに西洋の科学や薬学で教育を受けた医師がいるようになり、そのほとんどに熟練の看護師がついている状態である。この結果、我々のミッション(R.C.A)は日本での医療事業を途中で中止にしたり設立を諦めている。
そうした伝道活動の初期においてそのような区別が存在しなかった明確な理由は次のようなことである。つまり、あらゆる最初の伝道活動の重要な目的は、日本語の取得であり、それは大きい高い壁のように彼らの前に立ちはだかっていた。そのような壁、すなわち障害は福音を教えに行きたいと願う人々の渉外を難しくするものであった。我々は言語の語源について研究することが、初期においては学問的な探求であったことを記憶しなくてはならない。そのような学問的な研究に何一つに手助けがなかったにもかかわらず、初期の伝道活動である日本語の取得を自分たちの後に続く人々のためにしなければならなかった。ヘボン博士の最初の辞書は彼自身が用いていた単語のリストであり、毎日ノートを持って出かけて彼の周囲で許された限られた交流からわずかばかりの単語を拾い出した。ブラウン博士の文法も同じように作られた。そして、このことがいかに骨の折れる作業か想像できるだろう。わずかな進歩の喜びが、現在発見された単語が将来においても再発見されることにより与えられるだろう。なぜなら、何らかの名称を知ろうとする時に、その間違いがわかる前に何週間もかかり、本当の名称を知ることによって驚きや疑いの声をあげるからである。
この間中ずっと宣教師たちによって行われうる唯一の説教は、彼らの生活によって示された。すなわち、彼らは文字通り「キリストの僕の模範」、「キリストの福音に値する生活」(フィリピの信徒への手紙1章27節から引用)を示すことによって自分たちの伝道方法を見出した。これは、忍耐、謙虚、親切を訓練する時間であった。なぜなら、奉仕者たちにとっても(日本人)教師たちにとっても、そのような模範的な生活を示すことは難しかったからである。さらに、宣教師を取り囲んでいるスパイや役人のような人物に無実であるのにもかかわらず、突然警告もなく脅かされたとしても、あるいはそそのかされても、彼は、(フィリピの信徒にパウロが勧告したように、)キリストの僕の模範を示すことができたのである。わずかばかりの宣教活動は、漢字によるいくつかの冊子(漢訳聖書(註6))を学問的な研究者たちによって読まれることによってなされことはまぎれもない事実である。しかし、その一部分を見たり、さらに内密にそれら全部を読んだりすることが彼らの指導者たちに知られたら、地位を失うことになりはしないかとまもなく恐れるようになりました。その漢訳をある程度熟達して頼りになる教師が確保することができた。そして、次の段階はキリスト教の印刷物を用意すること、つまり聖書全体、チラシ、讃美歌を翻訳することであった。そしてこれがなされた後、さらにそれらを印刷することはほとんど不可能であった。当時のあらゆる印刷は版木から作られており、板目木版のようであった、というのは可動活字が導入されてから数年しかたっていなかったからである。稲葉(儀平)(註7)という男が版木から最初の印刷を行った。しかし、彼はそれを内密に行い、夜までにそれをヘボン博士に手渡した。1878年(明治11年)にタイプからの印刷が導入された後、製紙文舎会社が聖書の多くの部分の印刷を引き受け、彼らの信用と名誉の保たれるために何年も聖書協会のための印刷を続けた。
宣教師たちに自ら進んで英語の習得のために来る若者たちによる影響を利用することができると、彼らが気付くのにそれほど時間はかからなかった。このようにしてクラスが形成され、その中に集まった人々は後の教会の先駆者となり、現在はキリスト教社会の中枢となっているが、その一方で彼らは政治的な政党からは区別されている。キリスト教の信仰の真価が最初に示されたのはこの階級の人々においてであり、彼らの中で最初の改宗者が生まれたからである。この状況の背景において、宣教師たちに公共の奉仕が許されるために、彼らが最初に日本にやってきてから10年ないしそれ以上の年数がかかり、宣教師たちは自らの家屋内に踏みとどめられ、日本人の町には入れなかった事情があった(註8)。日本での伝道の初期の歴史についていえば、自然に口から出てくる名前は、ブラウン、ヘボン、フルベッキの各博士である。よく言われてきたように、「日本とのアメリカの交流の歴史においてブラウン、ヘボン、フルベッキの各博士により行われた仕事について述べた部分ほど輝かしい部分は本当にない。」(「ジャパンメイル」)
サミュエル・R・ブラウン博士は、日本に来日した最初の我々のミッション(R.C.A)の一人である。神奈川に1859年11月1日に到着している。彼は宣教師としての素質においても、彼が初期の段階における日本語取得においても際立って優れていた。彼は誰よりも優秀な学生であるとともに教育者であった。彼の母親であるフェーベ・ブラウン夫人が、貧しい境遇にもかかわらず、自分の大家族のために成し遂げたことは実に素晴らしいものであった。彼女は息子の人格形成に大きな影響を与え、息子は母親の強い意志力を受け継ぎ、そのような素晴らしい魅力によって、彼の生徒たちに強い印象を与えることができた。ブラウン博士は優れた音楽家であると同時に生まれながらの優秀な言語学者であり、日本語を注意深く学ぶ研究者であった。彼はまた完全な教師であり、自分の教室では、学生の中途半端でいい加減な朗読を決して許さなかった。彼の忠告に従い、英語の基本という骨折り仕事を完全にマスターした学生たちは後に熟達した学者となった。その一方で、そのような「子供じみたやり方」を嫌って自分たちの好みに傾倒した学生たちは、会話においても文法においても、例えば、効果的で慣用的な英語を取得する時に、自分たちをしのぐ者たちのさらなる勤勉さを知ることになったのである。ブラウン博士の教室はその学問的な神学の学科から成り立つ現在の明治学院の基礎を築いた(註9)。と同時に彼の批判的な鋭い洞察力と優れた言語の学識は新約聖書の翻訳において非常に貴重な助けとなった。1879年7月に健康を損ねたため日本を去らなければならなくなるまで短い間であったが、翻訳委員会で議長として活動した。その後まもなく彼は心臓の病のため1880年の夏70歳の時アメリカ・モンソンにある古い自宅で安らかに亡くなった。彼の妻はその後、数年生きていた。
ガイド・フリドリン・フルベッキ宣教師は、1830年1月23日オランダのユトレヒト地方、ツァイストに生まれた。彼は1859年11月7日長崎に上陸し1898年3月10日に東京に移ったが、この時は日本での最初のプロテスタントの教会の誕生日であった、それは40年近く日本で働いた後のことで彼が69歳の時のことであった。日本における最初の10年間は長崎で過ごしていた。彼は南日本伝道において、その任務を全うすることができた。フルベッキ博士は1869年に政府の招聘を受け、欧州における大学を模範とする最高学府を設立するため、当時は江戸と呼ばれた東京に来ている。彼の葬儀の時、「ジャパンメイル」の編集者は彼のことを次のように書いた。「教育の分野、そして政策の分野においても、フルベッキ博士は際立って有能であったが、常に気取らない人物であった。その偽りのない誠実な性格のおかげで、彼は自分に接するすべての人たちから直接の信頼を勝ち取り、明晰な洞察力、適切なものの見方、そして利他的な同情は彼を重要なカウンセラーにした。開成学校を立ち上げたのはフルベッキであり、それは日本初の大学で現在の総合大学の始まりであった。現在繁栄している学校の多くは、その始まりを彼による有能で親切な援助からもたらされている。どれほど多くの援助を彼は明治時代の政治家たちに与えたのだろうか。彼らの進歩的な計画を実践するための援助を私たちは計りえない。しかし、不思議な事であるが、フルベッキが亡くなる前夜に至るまで現在の首相と大隈伯爵はそのことを少しも考えていなかった。だが、この時の彼らの会話はわずか数時間しかなかったが、お互いにフルベッキが日本で自由で批判的な思想を啓蒙することを他の誰よりも王政復古の時代に貢献していたことを私たちに想起させた。すなわち、日本が実現できるまで時間が必要であろう文明開化(近代化)を学ぶという目的で、ヨーロッパやアメリカへ外交官を派遣することをフルベッキが急務としていたことである。」 軍医総監石黒忠悳(ただのり)男爵はフルベッキの葬儀の時に次のように述べた。「何年も前、岩佐、相良、長谷川の各博士と彼自身、日本で医学を学ぶのに何の言語が使われるべきかについて話し合ったのち、ドイツ語が英語よりも望ましいと確信した。その後、相良博士がその問題をフルベッキ博士に伝えると彼も医学はドイツ語で教えられることを彼らに同意して政府に勧告した。この勧告は採用され、ドイツ語は日本において医学で用いられる言語とされた。この件は、彼の勧告が求められた様々なテーマに与えられた一例に過ぎない。しばしば彼は一晩中勉強していた。親密になっていない人々に勧告を与える用意をするためである。そして通訳がほとんどおらず、辞書も珍しかったときには、彼の語学上の学識はその勧告を相談や参考のために非常に価値あるものとされた。と言うのは、フルベッキ博士がラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を読む傍ら、英語、ドイツ語、オランダ語、そしてフランス語を話して書いていたからである。」
このように10年間、彼は政府に雇われ続け、1869年から1878年まで最初は大学の学長として、また教育機関における様々な分野でその能力を発揮した。そして枢密院と県庁への勧告者として、さらには貴族の学校での講演者として活躍した。政府のお雇い役人を辞して、休養をするためにカリフォルニアへ戻るときに日本の旭日章勲三等が授与された。このことは同時に、日本人のあらゆる階級からの尊敬と称賛のしるしを授与した類いまれな外国人となったことを意味していた。彼は日本に戻る時、改めてミッション(R.C.A)に加わり自らの意志にそった仕事で役割を果たした。また、彼は神学校で教えることもあった。しかし、学校の利益を損なうのであればその仕事をいつでも辞した。彼が最も愛した伝道的な仕事のために多くの余暇を楽しんでいた。彼は旧約聖書の翻訳委員会の仕事についた。詩編、イザヤ書やその後の預言書の翻訳において、日本の教会に支持されていたフルベッキとその旧約聖書の翻訳委員会(日本基督一致教会)はミッション(R.C.A)の翻訳委員会よりも正確な翻訳の改訂のために優先権を持つ事ができた。その一方で神学校や教会における伝道的な仕事はフルベッキ博士に向いており、神学校での講義や教会での説教において彼は大いに励むことができ、そのことで日本のキリスト教徒の間では感謝され覚えられ続けるだろう。彼の優れた言語能力は日本言語の研究の上でまぎれもなく役に立ち、その人々との長時間にわたる親密な交わりは時々外国人との交流を排除することにもなったが、日常会話では完璧と言えるまでになり、この熟達度は彼の話を聞きに来る人々に対して驚きと喜びの源泉となるまでになった。フルベッキ博士は彼のミッション(R.C.A)のあらゆるメンバーに対して非常に貴重であり、説得面と愛情面の両方において最も忠実であったが、あらゆる宣教師は次のように考えるようだった。彼は十分に教会に所属しており日本人同様外国人に対してもあらゆる種類の会議で一人の話し手として心から歓迎され熱心に求められていた。その国のどこへ行っても彼はあらゆる教会を喜んで助け、純粋な福音を聞きたい全ての人々のために説教した。フルベッキ博士は、偉大な日本における宣教者であり、クリスチャンの「紳士」として彼は長く我々の見本であり指針となるであろう。親密に彼を知ることは信仰的な霊感を導かれるとともに甘い記憶をもたらした。すなわち、天国への扉が開いて漂ってくる甘い香りを彼を知る者たちにもたらしたのである。
(註1)1859年(安政6年)11月1日にアメリカ改革派教会のS.R.ブラウン、シモンズが神奈川に着く。同年11月7
日にアメリカ改革派教会のフルベッキが長崎に着く。
(註2)明治期の近代化は、短期間に脱亜入欧をスローガンにして推し進められた。憲法制定、政治制度、土木建築、産
業、医療看護、教育、文化芸術における近代化は注目される。
(註3)1873年(明治6年)2月24日明治政府はキリスト教禁教の高札を撤去した。禁教令を解いた当時の政府の最高
指導者は西郷隆盛であった。
(註4)一六日(いちろくび)とは、江戸時代から明治時代の初期にかけて休日と定められた毎月、日付の下1桁の数
字が1と6の日で、1日、6日、11日、16日、21日、26日であるが、31日は含まれていない。1868年(明治元年)9月に、明治政府も16日を太政官布告で官公庁の休日とした(慶応4年1月21日、1868年2月14日法令全書参照)。
(註5)American Board of Commission for Foreign Missionは会衆派に長老派、オランダ改革派などが加わった無教
派的な海外宣教団体であったが、後に会衆派以外の教派が離脱して会衆派の宣教団体となる
(註6)漢訳聖書は中国語訳の聖書である。中国に派遣されたアメリカのブリッジマン(アメリカ会衆派教会・アメリカ
ン・ボード宣教師)は独自の改訳を行い1861年に『新約全書』1863年に『旧約全書』を米国聖書協会によって上海
から出版した。ブリッジマンはカトリック訳で「天主」を訳されたギリシャ語“θεός”を神と訳したが、来日した
宣教師たちの日本語聖書の翻訳に影響を与えた。今日の邦訳聖書でもほとんどがθεός を神と訳されている。
(註7)幕末から明治初期にかけての聖書の和訳にあたって実際に日本語訳の聖書を翻訳したのはアメリカ改革派教会
の宣教師であったヘボンとブラウンであった。ヘボンは1859年(安政6年)の来日直後は漢訳聖書(註6を参照)からの和訳を試みていたが、その後、ヘボンとブラウンの協力によって英文を軸として原典からの日本語訳を試みている。その後、翻訳委員会に加わり、中心的メンバーとして新約聖書の全書翻訳作業を推進した。その最初のものとしては、1872年(明治5年)に出版された『約翰傳福音書』(ヨハネ福音書)で、「東京住吉町二丁目稲葉儀平」(実際は横浜の治平衛)が版木を作成している。参考「聖書和訳とヘボン」岡部一興(明治学院大学キリスト教研究所紀要48)2016
(註8)宣教師を初め外国人の居住権は特定の場所、「居留地」と呼ばれた範囲が設けられた。
(註9)このテキスト(報告書)の著者であるミラー自身も明治学院で神学講師として教えている。
Ⅱ.福音伝道の記録
熱心な福音伝道はその後、次第に拡大していくこととなる。最初から10年以上の間、限られた伝道しかできなかった。宣教師の初期の伝道は予備的なものであった。それは、英語の学びの時間であったが学生を魅惑できる説教でもあった。公の場での説教が許されてからも、宣教師たちが条約による開港場の半径10マイル以内に限定されていて(居留地のことだと思われる。(註1))、巡回説教をすることはできなかった。最初の伝道旅行は若い改宗者の何人かによって行われた。この主な理由は、外国人はまだ護衛なしには国内を旅行することができなかったとことによる。しかし、1873年頃には、このようなことはもはや必要でなくなった。そして、宣教師ではない人々が「科学的な調査」をするために、あるいは「衛生的な調査」のために盛土された場所(内地を意味している)へ行くためにパスポート(許可書)が用いられた。このようにして形式的であるものの公的な理由として引用され、あらゆる許可証が「衛生的調査と科学的調査のために」と記された。この罪のない序文が多くの議論や責め合う原因となった。政府の役人たちは繰り返し、次のように宣言した。宣教師たちはキリスト教(信仰)を教えるためにこの国に出入りすることを知っており、それを行うことに反対はなかった。しかし、許可証の形式的なその理由の表現は変えられなかった。そして、このような経緯にかかわらず、偽りの理由で伝道のためにパスポートを利用した宣教師たちは非難された。もちろん、そのような許可証は不便であって都合の良いものではなかった。巡回する地区が明かにされていて、その巡回先の道路が分断されていた時であっても、巡回しなくてはならない場所はすべて入られなければならず、その巡回する場所を変更することができなかった。しばらくして、外務省の役人とアメリカの新しい宣教師がたまたま同時に役所に入った時、彼らは次のように決めた。それは、誰もが許可証の指示に厳密に従うならば、滞在できると言うものであった。そしてアメリカの宣教師は母国にそのことを通知した。しかし、やがて外国の役人は次のように気付いた。彼は母国の政府の意図を誤解していることに気が付いて、アメリカの宣教師たちが彼らの伝道の旅行を再開するよう知らせた。この出来事によって、宣教師たちは、彼らが望んでいた場所がどこであってもパスポートがあればいつでも行けるようになり、そして教えることができるようになった。
公の集会を開催することに関しては、多少厳格であった。時には、主題、講演者などを事前に警察に知らせなくてはならなかった。通報された集会は終了にしなくてはならなかった。大きな集会では1人以上の警官が出席していたが、役人がまったくいない時があることもあった。今では宣教師が望む場所や主題が問わずに行えるようになり、借りている家屋内での講義や説教は地域的な騒動や妨害がある以外は可能である。そのような妨害は一般的にキリスト教以外の教職者の扇動で起こったが、まれなことであった。新しい条約が効力を持つようになって以来、定期的な説教がされるあらゆる教会や集会所あるいは日曜学校などは記録されなければならなかった。それは、どんな宣教師、伝道者、そして正規の奉仕者であっても記録されなくてはならなかった。そして同様に、あらゆることが報告されねばならなかった。しかし、日本であれば、どこでも、まれに行われた集会では特別な制限はなかった。最初の福音伝道は魂の救済のために行われた按手であった。洗礼を授けた最初の人は矢野元隆という神奈川に住んでいる鍼療法の医師であった。彼はバラの医師で以前はブラウン博士の医師であった。彼は病床で1864年10月に洗礼を受け翌月亡くなっている。
そして1866年5月20日に肥前の封建領主である家老、村田若狭政矩と彼の弟、綾部幸煕は長崎でフルベッキにより受洗した。後に綾部氏は東京にあったある教会の一員となった。同じ年の春に、監督教会のウィリアムス(後のウィリアムス司教)はショムラという名前の男に洗礼を施した。そして、その夏の間にフルベッキは仏教信徒島津に洗礼を施し、彼はフルベッキが長崎を去った後、キリスト教徒になったことで5年間投獄された。彼は後に東京へ行き麹町教会の一員となった。
横浜では、バラが1868年5月にアジキ高明(その名は後に粟津慶次郎に変えられた)と鈴木貫一に洗礼を施した。1869年2月にタムソンは小川義綏、鈴木小次郎、鳥屋ダイに洗礼を施した。1868-69年バラが休暇で不在の時、米国長老教会のタムソンがバイブルクラスと説教の奉仕で集めることのできた数人のために始めた。しかし、バラが戻ってくるとこれ等の奉仕を辞め、その教会の土地に建てられた小さな教会の中で20人以上の生徒を日中の学校で教えた。この学校は日本の様々な場所から英語の教育を求めて集まってきた若い侍による信者たちと本多、押川、植村や熊野などのような最初の日本人牧師や、大学の学長や教授らによる最初の組織された団体であった。初週祈祷会(註2)は1860年から彼らの居住地で宣教師たちや他のキリスト教徒によって順守され、年々目立つようになって続けられ、特にキリスト教禁止令の排除を求めて、全国で福音伝道のために同盟する請願書(下記*ミラー自身の註)を1866年1月14日に祈祷者の要求において出すに至った。(※我々はキリストの同胞にこの最後の障害が取り除かれて、聖霊が日本の指導者を動かし神のみ言葉を聞き読む自由を公布することを祈る。)1872年に行われた初週祈祷会で、バラや小川義綏が教師を勤めたバラの学校の生徒が毎日集まりその主題(全国で自由に神の言葉である説教を聴き神の言葉である聖書を読む請願)を祈り続けた。2月に日本と中国の新年の時期に、その学校の生徒たちは、日本のため初週祈祷会を維持することを一致して計画した。その初週祈祷会の主題は、ヨーロッパ人が他の国々の人々を覚えた祈りでもあった。バラ氏は彼らの要求でこれらの祈祷会に参加し、天国の窓は初めて日本の上に開かれ、小さな学校の部屋の中に先生方の心に喜びをもたらす恵みの雨が降り注がれた。これらの恵みは何週間も続けられその結果、最初の日本の教会が1872年3月10日に横浜で組織された。それは9人の若者たちで構成されており、彼らはその学校のメンバーのすべてであり、彼らはその日に受洗した。以前に洗礼を受けた2人の中年男性もいて、その2人は小川義綏と仁村守三であった。これら2人はその誕生まもない教会の年長の執事に選ばれた。教会員たちはその教会に「日本基督公会」(註3)という公同教会の名前を付けた。日本基督公会の教会憲章を作成したが、それは簡単な福音的な信条がわずかな規則とともにあり教会の運営が教会員の承諾とともに牧師と長老の手中にあるべきだということを意味している。18か月後に姉妹教会(註4)が東京で設立されたのは1873年9月20日のことであった。その1人はタムソンによりその月のはじめに洗礼を受けた。横浜海岸公会の7人の信者は洗礼を受けた、1人はブラウン博士、1人はタムソン、5人はバラにより受洗していた。タムソンは彼らの牧師として活動し、教会は新栄橋公会として知られたが、横浜での教会は横浜海岸公会と名付けられた(註5)。
横浜海岸公会は急速に成長した。教会が創立されてから1年後、最初の伝道所が東京に始められて、教会員は62名の大人と13名の子供たちに増えていた。その一方で1875年に教会の会堂が建てられた時、166名の陪餐者と19名の子供たちがいた。建物の献堂式は7月10日に行われ、時が経つにつれて教会の会議が小さな礼拝堂で行われるようになった。また、その敷地内にいくつかの建築物が建てられたが、その敷地内にその土地の権利証を守るためにビルのような建築物が建設されたのである。教会の費用は8000ドルであり、最初の1000ドルはサンドイッチ諸島のキリスト教徒によって寄付されたものだった。教会の組織の10年後、1882年3月18日にサンドイッチ諸島のカラカウア王は日本を訪れた時、教会で行われた会議にやってきて、その国に教会もキリスト教信者もいなかった当時に、彼の国の教会とキリスト信者に何年も行われてきた贈り物に感謝したのだった。教会の創立後やがてバラ氏は江戸湾の横浜とは反対側の上総の地方にある下野山を訪れた。プルイン夫人と小川夫妻と彼自身の幼い二人の娘が彼に同行した。外国人たちは佐久間という村長の家で楽しいひと時を過ごし、この家の守り神の前でバラは条約の制限外で初めての説教を行った。そこでの説教のテキストは、アレオパゴスでのパウロの説教の場面であった。箱根の村でピアソン夫人が仕事を始めてからまもなく、そこで外国人たちは暑い気候のためにそこへ出かけるようになった。彼らは峠の向こう側に半分ほど降りていった山中に滞在した。さらに同じように下っていくとそのふもとに大場村と三島町がある。バラ氏は続けて同じ夏をこれらの町や村で過ごし、ブラウン博士もまた箱根で行われた礼拝に参加した。横浜海岸公会の最初の福音伝道は1873年10月に行われた。教会の2人の長老、奥野と小川は武蔵とニソの地方に入っていった。彼らの伝道旅行の成功により、活力は大いに促進され、その帰途でバラは彼らから聞いた日本人初めての福音伝道の説教に大いに興味を持ったことを話している。奥野が引用したテキストは「あなたはさまよえる羊なのであるが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペトロの手紙一2章25節)であった。しかし、それは最初の巡回説教ではなかった。と言うのは、1874年7月になって最初の巡回説教の旅行がされたからである。それは二人一組で、若いキリスト者によってなされた。篠崎と押川は静岡へ、吉田と井深は八州へ、本多と雨森と井戸は下総へ、そして熊野は箱根へ向かった。1875年の夏に、横浜海岸公会の教会員である鈴木が、信州の内地にある大きな城下町で上田にいる親戚を訪れた時のことであった。そこで彼は聖書の真理について、友人たちや親戚に話す一方、彼らの中には自分の説明した福音のことをすでにより完全に聞いたことがあった人々もいたことがわかった。これらの友人の中には稲垣がいて、横浜でジョン・バラの学校に出席していてタムソンが東京で説教したことを聞いており、また約1年間長崎にいた際に彼はスタウトの説教を聞いたのであった。鈴木の教えの下で彼はキリスト教(信仰)の真理を確信するようになった。上田に坂巻という人物がおり、春に東京でタムソンにより洗礼を受けていた。また新潟でパーム博士により受洗した盲目の人もいた。
稲垣は長崎からの帰途で横浜に寄っている。そこで始まった断酒会のことを聞いた。彼はそれに非常に興味を持った。このため彼の個人的な要望から、上田に戻ってから7人の断酒会のメンバーとそれを始めた。彼らは定期的に会い、始めた聖書の学びが彼らの規律として十戒を採用していくことになった。その結果、彼らは安息日を守ることにした。その日には彼らは聖書を学び、理解できなかった部分に印をつけて読み、やがて不明な個所を彼らに説明できる人が現れることを期待していた。断酒会の集まりは固く平日に限られていた。この聖書の信者たちのバンドは1875年に押川(方義)により見出されたのは、新潟でエデインバラの医療伝道というパーム博士を手助けするための旅行中、上田を通過した時のことであった。押川は彼らを指導した。その勧告で稲垣は横浜へ行き、1876年1月にバラにより受洗した。今では彼は著名な聖職者となっており、長期にわたって牧師を務めている。今回が二度目になるが、今も横浜海岸公会の牧師である。宣教師のどんな努力とも関係なく突然この聖書への関心を持って学び始めた彼らは、宣教師に来てもらって指導してもらうことを切望していた。ミラー夫妻は上田に向かって出発し、1876年8月の初めで、真木が同行していた。彼らは5人の若者たちでその町から5マイル(8km)離れた茶店で出会った。若者たちは彼らを朝から待っていた。そして、10日間滞在できる宿泊設備のために選んだ上田にある1件の家に彼らは同行していたのだった。日曜礼拝と婦人のための会合のほかに、稲垣の家で毎日2回の礼拝をするように準備されていた。こうした毎日の礼拝には20から100人の人々が出席していた。最後の安息日にミラーは16人に洗礼をした。すなわち中年の男性2人、若者8人(彼らのうち3人は公立小学校の教師)、4人の未亡人、1人の若い女性、そして“Love”と名付けられた稲垣の赤ちゃんであった。洗礼の儀式が執行された後、最後の晩餐を覚える聖餐が弟子たちのこの小さなバンドによって執行されていたが、あらゆる他のキリスト教徒からはるか離れていたし、彼らの近年信じた真理についてはほとんど知らず気にもかけない人々によって囲まれていた。宣教師たちが若い改宗者と別れる日が来た時、彼らは人々の木の足かせの騒々しい音で目が覚めた。彼らは別れの挨拶を述べに来ていた。彼らは我慢強い日本人の性格を持って宣教師たちが朝食を食べるまで待っていて、立ち去るとき短い祈りに加わり、多くの涙が彼らの目にあふれていた。しかしながら、彼らの熱心な要望で、真木氏は彼らを指導するため9月末まで残ることになった。上田公会はこの年の10月8日に創立された。16名以上の多くの人々がバラ氏により洗礼を受け、稲垣は長老職を命じられた。1人ないし2人の姉妹、さらに彼の妻と祖母もその日に受洗した。滞りなく執行された。前者の2人が神の栄光へと招かれたことが、福音の種がその国中に蒔かれた一例として、この報告が長い間用いられてきた。宣教師たちにより報告される時もあるが、地元のキリスト教徒による報告されることもある。文書として記載された報告によることもあった。上田の信者の一人は11年前にアメリカ合衆国と日本との間で実行された条約の条項によってキリスト教(信仰)に引き付けられたと語った。
我々の伝道の他いくつかの仕事は東京の町とその付近で始められた。やがて1877年に麹町教会が創立。さらに1878年に和戸教会が創立されたが、東京から近い村で一人の農民の息子により伝道が始められた。同じ年に伊藤が三島で伝道を始めた。1879年には下谷教会は植村が牧師となって創立された。麹町教会が建てられたがすぐ後に焼け落ちてしまい、1881年まで再建されなかった。1879年に阪野が南長老教会のミッション(P.C.U.S)のもと、名古屋で仕事を始め、その後、山本が岡崎で始めた。美濃と尾張地区で十分な伝道する時間があったが、十分に監督することが出来なかった。そこは、南長老教会のミッション(P.C.U.S)による監督が行われた。
下記の教会は、かつて我々のミッション(R.C.A)の指導の下にあったが、今は独立している。すなわち、横浜海岸教会、東京の麹町教会と下谷教会、信州の上田教会と春日教会、伊豆の三島教会、尾張の名古屋教会と瀬戸教会などである。もちろん、そのような独立したすべての献身に我々は大変感謝している。できるだけ早く日本の教会が外国の献金から自立して独立する状態にすることによって、我々のミッション(R.C.A)としての働きは終了した。しかしながらその状態は自立の状態に達していないとき、何年も福音伝道に費やした場所や非常に好ましい機会が我々に与えられた場所を、我々が好まない福音伝道、つまり不向きな人々や手段による福音伝道をする他の人々に引き継がなくてはならないことは実に悲しいことである。この後者の事例の一例として、我々は以下のように言及するだろう。すなわち1873年か74年に、非常に熱心な要求が本多のもとに来た。彼は海岸教会の元来の設立者の一人で、ミッション(R.C.A)は弘前という彼の故郷へ学校を開くために誰かを送る、という話である。弘前は日本のはるか北にあった。その地方へは誰も向かうことが出来ず、福音伝道の準備がミッション(R.C.A)から行われる前に、(北米の)メソジストのミッション(M.E.C(メソジスト監督教会))はJ.イングを送ることができた。彼は学校で教え、その伝道を通じて15人の改宗者に洗礼を授けた。これらの信者は、この信者の群れを教会にするために、そして礼拝の為に牧師と長老を遣わしてくれるようという要望を横浜海岸教会に出した。この要望は叶えられた。本多は彼らの長老として遣わされ、1875年11月に弘前公会(日本基督公会に所属)が創立されたが、後に日本メソジスト教会(日本美以教会)に加わった。それは日本で影響力を持った最強の教会の一つである。日本メソジスト教会の日本人の聖職者たちの3分の1までもが弘前教会の出身と言われているからだ。
1878年に大会伝道局(日本基督一致教会)が形成され、外国人と日本人の聖職者(宣教師と牧師)と長老で構成されており、ミッション(R.C.A)の多くの福音的な務めはこの大会内の伝道局に委ねられた。1879年にそれは中会の下で伝道委員会へ拡大した(当時、日本語で中会と呼ばれていた長老会があった)。そして大会伝道局に引き継がれた務めは、中会(長老会)の伝道委員会に引き継がれた。ミッション(R.C.A)の福音伝道の為の様々な務めの中で最も重要な務めであった。そして当然の結果として、より重要ではなくしかもより難しい場所はミッション(R.C.A)の下から離れた。もう一つの結果は、より良い伝道者がこの伝道局の下で用いられ伝道の働きが拡大したと言える。そして最後の結果として、現在の福音的な伝道の働きはミッション(R.C.A)によって始められたのであるが、何年も前にすでに実現すべきと指摘されたように、伝道を進展させ拡大させる重要な計画が必要となったのである。ミッション(R.C.A)の直接の監督下での現在の福音伝道の仕事は横浜とその周辺に置かれている。すなわち、江戸湾を横切った安房と伊豆の地方、北と南の信州の地区に分けられた信濃の地方、それに本土の極端な北方に位置する盛岡と青森の都市を中心とする陸中地方ないし陸奥地方である。安房地方は特に発展もしなければ重要でもなかった。つまり働き手は一流ではなくその結果、たいして有望でもない。伊豆地方は三島、小山、御殿場、柏久保などの仕事を含んでおり、町や村は富士の麓周辺である。ここでの仕事はかつて非常に盛んで、非常に熱心なキリスト教者がこれらの町から出たが、現在はそれほど明るくない。しかしながら三浦は丁度、盛岡からそこに引っ越してきたところで、彼の知識と経験はその中に新たなる生活をもたらすだろう。
信州地方はこの国の中で最も重要なもののひとつである。それは地理的に日本の中心部に近く、122万6842人の人口で蚕と繭を飼育する絹文化の巨大な中心地である。山々からなるこの地方は北部と南部に分けられその中心は上田と坂下であり、これらの場所はそれぞれの地方ではそれほど重要な場所ではないが、我々の仕事では最も中心的な位置にある。我々にとって重要な2つの都市は南部では松本、北部では長野である。信濃地方は日本では最も高い高原である。それは肥沃で人口も多く、いくつも大きな都市がその中にある。東京から西海岸(日本海)まで一本の鉄道が通っている。そして、北信州での我々の巡回路を進むとそこから新潟に行ける。もう一つの巡回路は2年の年月によって築かれた。それは長野から南信州と甲州へ向い北回りではなくて西回りで東京へと至る。そして、松本、諏訪、坂下、飯田での我々の伝道の重要性は増す傾向にある。これらの町の中で、我々の現在の仕事は地元の助けにより実行されている。松本は昔も今も城下町である。公的な中心地が南信州最大の町である松本から長野に移された。そしてその交易のすべてが中心地へと移ったにもかかわらず、松本は今も最も重要である。それは流れの早い川で長野から1日で西の海岸(日本海)へと舟で下ることができる、しかしその逆は不可能である。そして1年か2年以内に、西の海岸(日本海)と鉄道でつながるだろう。同じ鉄道はまた東京とつながるだろう。東京は騒々しく活気に満ちた3万763人の住民の町である。
松本での伝道の仕事は8年間実行され続けているが、熱心には行われず、松本が伝道の拠点とされるほどには繁栄しなかった、そこには在住の宣教師がいた。南信州地方の宣教全体を見渡すことができた。坂下は8,310人の人々の町であり、南方向の松本からの谷を30マイル(48km)ほど下ったところにある。最近では、そこからほど近いところで高遠(たかとう)と呼ばれた大きな町が近年成長している。それは実に小規模な商業地であるが、東京への鉄道が完成されるならば急速な成長を約束されている。ここでの我々の仕事は近年始められたのだが、我々が伝道したどんな場所よりも反映している。諏訪は6,200人の住民がいて東京から京都のその島の中心地を通過する主要な道路である中山道での和田峠のふもとにある町である。それは松本からほぼ20マイル(36km)で、坂下から同じ距離であるが、これら二つの町を通過する直接の道から幾分離れている。その町はそれほど重要でないが、近郊には大きな絹糸を巻き取る工場が一つある。それは近くの町や村が到達できるところからの中心である。ここでの伝道の成果は大きくはないが、大きく拡大するかも知れない。ミッション(宣教団体)の援助によって広く伝道されたにもかかわらず、信仰者によって建てられた小さな教会があるだけである。教区内の宣教師たちは上諏訪を訪れ、そこは9900人の人々の町であるが、滞在して何年も伝道を行った。この上諏訪は甲州に向かうから主幹道路から3マイル(4.8km)離れている。飯田は大きな町で1万4223人の人口がいて、坂下からの川をおよそ28マイル(44.8km)下ったところにある。飯田は清潔でつましい場所で谷間の貿易の販路で、天竜川の水路の初めである。その急流を下ると1日で東海道の浜松の町へ着く。飯田でのキリスト教徒の務めの外観は明るく、問題なく始まり成功し続けている。
北信州を見ると、長野の自然な中心地があり、それは3万412人の都市で県庁所在地であり、善光寺という大きなお寺があり、それは仏教の影響である。それは山々に囲まれた肥沃な平地の中にある。東京からくるとき、鉄道は名高い碓氷峠のふもとまで約100マイル(160km)の間、田舎の美しく繁栄した場所を通過する。そこからアプト式鉄道により信州の巨大な大地の外れまで登り、ちょうど大地の縁で、峠の頂上に、浅間の煙っている火山の中に軽井沢の村がある。これは日本に派遣された宣教師たちの広範囲におよぶ避暑地である。軽井沢から西の沿岸(新潟)に向かって台地は次第に下っていく。そして約半分下ったところに長野の町があり、東京から135マイル(216km)ないし鉄道で9時間、また上田から約21マイル(33.6km)ないし1時間である。長野から半径15マイル(24km)内に10の町があると言われている。間にある村のほかにそれぞれ1万人以上の住民がいる。人々は偏屈なので、彼らは皆、偉大な寺の僧侶の影響を受けていて、その町は重要な商業の中心地ではなかった。が、福音伝道が行われ福音が語り伝えられた日本の大都市の一つとなった。巨大な寺の隣にはりっぱな堂々とした建物があり、様々な階層の人々が在籍しており急速に成長している多くの学校があった。その約100人の生徒は宣教師の教えを受け、毎年これらの学校(セミナリー)から武装が解除された様々な地方へ送られた。控えめに言っても、そのような地方にはキリスト教に対する偏見があった。長野での福音伝道の仕事は1890年に始まったが、1897年にスカッダー夫妻とシュンク夫人がここに赴いてから、信者を適切に面倒みたのだった。信者の多くの人々がその場所に来たいきさつは様々でしたが、その寺とその奉仕に関わりがあって、福音伝道の仕事を実行する上で難しいこともあった。しかし、このことは時が過ぎ去ると解決することで、人々が熱狂的な仏教徒であるというその事実は、まさに彼らが熱心なキリスト教徒であることにもつながるだろう。彼らの目が光に対してすぐに開かれるに違いない。長野での説教所はその数を増し、現在の信徒の数はおよそ40人である。
信州でのミッション(R.C.A)の作業のもっとも古い中心地は上田であり、2万3664人の住民の町である。上田教会は1876年10月8日に37人のメンバーで組織された。それは我々のミッション(R.C.A)の管理下であり続け自活の間もあったが、1895年に大会が管理下に置くまで続いた。現在は自活中であり、彼らの新しい牧師は1899年12月に導入された。教会のメンバーは上田に置かれたミッション(R.C.A)の女性たちと誠意を持って働いている。我々のミッション(R.C.A)ははるか昔1876年より上田でこの仕事と非常に密接に関わったが、1894年になって初めてミス・メアリー.E.ブロコーはそこに居住するようになり、翌年ミス・メアリー・デヨにより支援された。彼女らは女性たちの間で仕事を展開し近隣のすべての町や村を通じて日曜学校と女性たちの会議を設立した。そして福音伝道の仕事全体に大きな弾みが与えられ、教会のメンバーにより多くの活動と熱意を掻き立てた。ミス・ブロコーはアメリカへ行く1898年までいた、そして日本へ戻る途中で長老派教会のY.ジョーンズと結婚した。ミス・ハリエット・ワイコフは1899年10月にミス・デヨと合流したが1900年4月にフェリス女学院に戻った。上田から隣町小諸へ、8404人の場所へ、福音伝道は何年も実行されたが、ほとんどは真木重遠の伝道を通してでありより小さい町でも伝道された。が、ほとんど有名にはならなかった。一時期、春日に組織された教会があり、山中の2631人の人々の小さな村だったが、これは後に中会により解散され近年、臼田、野沢の信者たち、さらに以前は春日教会に属していた人々が臼田教会に編入され国内の大会伝道委員会の管理下にある。
ミッション(R.C.A)のもう一つの福音伝道的な分野は日本の東北にある岩手県と青森県にある。仕事は1887年遅くに林竹太郎と彼の妻により、盛岡で始められた。彼らは翌春にE.R.ミラーと三浦徹がその後に続いた。彼らはそこに移って夏の間中ずっと彼の家族と共に生活した。1年と少しの労働の後、林は北海道の紋別という火山活動によってできた海辺の湾の町に移り、その町の教会の牧師となった。この教会のメンバーは後に、北海孤児院の支持のための集団施設を始め、その中で林が代表となり、その後ずっと優秀な管理人となり続けている。ミラー夫妻は1891年9月にミス・レイラ・ウィンを仲間に加えた。ミス-ウィンが青森に赴任する1894年の春まで彼女は盛岡に居続けた。我々は また米国長老教会(P.C.U.S.A)のP.ピアソンの奉仕にも支援を受けており、彼は1892年5月から1893年12月までアメリカに戻ったミラーの不在の間、親切にも教会の仕事の管理を承諾してくれた。盛岡は岩手県の県庁所在地で3万4000人の住民の都市で北上川の最上流にある西海岸(日本海)では新潟を除いて仙台の北で最大の町である。それは国の北部全体の取引上、教育上の両方の中心地である。繭や米が栽培されるが、主な生産物はゴム、綿織物、鉄のやかん、小さな漆や他の産業活動である。学校はすべての子供たちが通うことが出来た。その学校は初頭から師範小学校までであったが、後には女子のための高等学校まで設立されている。その他に県政の下で農業学校と獣医の学校があり、中央政府は農業と林業のための高等学校の漸進的な建物の計画を発令したばかりであった。その学生たちは中等学校の卒業生となるだろう。この学校は札幌では農業大学として同じ等級となるだろう。これらの学校すべての結果として、県全体から学生の大多数が来ている。そしてキリスト教を聞く者の間では若者が大多数を占めており、次により多いクラスは役人であり、比較的より少ないクラスは商人で奉仕に勤めていた。このようにたまたま、洗礼を授けられた者は不定の人数で役人は数年ごとに変わっており、若者たちは成長し他の場所へ出ていった。自分たちの学問を完成させるためであったり、生涯の仕事に入って行ったりするためである。確かに後になって彼らは戻ってくるだろうが、その間、教会の役割は継続して変わらず、一方で信者の数は毎年ほぼ同じままである。初めからキリスト教徒の団体に加わった人々はそのままだったので強い自立の教会になるだろう、というのは100人以上が洗礼を受け、50人以上を他の教会から受け入れられたからである。現在のメンバーは92人であるが、これらの23人が盛岡に住んでおり、その5人は子供たちである。
盛岡にはメソジストの教会があり、同様にバプテストのものもある、数では我々自身のものほどは大きくはない。信者の間には非常に親密な関係がある。毎月、異種要素の結合からなる信者の会議があり、代わる代わる異なった教会で会合し月毎に説教を交換する。毎月の宣教師の会議もあり、そこでは現状について話し合われ、合同会議と相互の利益の問題は用意されている。1895年に盛岡教会の土地は買収され、同じ年に教会と牧師館が建てられクリスマスの日には献堂式が行われた。全部の費用は金貨で1968ドル、銀貨で3725ドルであった、それは土地、牧師館、教会、仕上げの費用を含んでいる。興味深い仕事は監獄での伝道であった。1891年に出席を望むすべての囚人のため日曜日の午後に礼拝を行う許可を得た。初めはアメリカ・バプテスト派のポートとアメリカ改革派教会・ミラー、日本人牧師の三浦が順番にこの礼拝(司会、説教など)を行っていたが1892年にポートとミラーがアメリカへ行った後、三浦が一人でこの事業に従事し1893年にミラーが戻った後も行ったが、彼は自分の事業を継続する許可を得ることができなかった。非常に多くの囚人が深く興味を持ちより良い人生を過ごすという望みを公言し何人かは受洗を求めた。彼らが盛岡にとどまっている間は教会の礼拝に出席することができたが、ほとんどが県の他の場所から来ていたので家に帰るとキリスト教を聞く機会がなかった。しかし我々は熱心な人々の期待を失わないように努めた。三浦が去る前に島村が自分の土地の監獄でこの事業を行う許可を受けた。三浦は12年以上も誠実な礼拝の後、妻の健康のため伊豆へ移った。彼はさしあたり静岡の都市に住むだろう。彼がなした伝道は島村に引き継がれるだろう。島村は明治学院の神学部の卒業生である。彼の妻は横浜のメソジストの聖書学校の卒業生である。1888年から福音伝道は花巻で始まった。盛岡の南約25マイル(40km)で8360人の人々の町で鉄道の路線もあったが伝道活動の成果はまちまちで伝道はあきらめられ、ほとんどのキリスト教徒が去っていき誰も礼拝に来なくなった。そして、担当中の聖職者も解任を求められた。信者たちは改めてもたれる礼拝を求めており遣わされる伝道者への配慮を申し出ている。
1894年の夏、一関で伝道が行われた。これは県境にある町で、盛岡の60マイル(96km)ほど南である。一関は隣接する村を含めて1万2822人ほどの住民がいて、そのことで、県内では盛岡に次ぐ最大の場所になっている。そして近年では国のその部分の学校の中心地となっている。すなわち、中・高等学校が建てられている。学生たちの何人かにはかなり興味を示すものがいて、伝道はうまくいっている。ハリス夫妻は1年間ここで働き、1899年9月にウィン夫人の代理をするために青森へ移った。彼女は休暇で帰国していた。現在、伝道は去年の1月に結婚をした宮川夫妻が行っている。宮川はハリスがそこへ行って以来、一関で働き続けていたが。ミス・M・レイラ・ウィンは1891年9月に盛岡へ戻り、ミラー夫妻が1892~3年にアメリカへ戻り不在の時、そこにとどまっていた。1894年に彼女は青森へ行き、そこは本土の北の沿岸の都市で、そこで1891年秋に真木により活動が始められた。多くの土地がミッション(R.C.A)により購入され、1895年にはミス・ウィンにより1件の家が建てられ、そして1899年には1件の教会が金貨950ドルで同じ土地に建てられた。開所式は1900年6月24日に行われた。活動はここではうまくいっている。伝道者であるナガノヤは、そこを旅たち長野で伝道を始めた。赤須夫妻は9月にその地域に入った。最近では彼は大会伝道局(日本基督教会)の下、水戸で近年働いている。
青森は非常に進歩的な場所であり、確実に重要性を増してきている。というのは、二つの鉄道の終着点だからだ。一つは東京から北日本への本線、もう一つは西海岸(日本海)で秋田と弘前を経由する。ここ12年のうちにその成長は1万5000人から2万9000人へとなっており、道は舗装され電灯が導入されている。本島から鉄道によるあらゆる貿易は、北海道まで船で行くことになり、青森を通らなければならない。しかし、住民数が少なくなったとしても、青森の人々は特にキリスト教に対し偏見を持っているわけでもない。彼らは盛岡の人々ほど保守的でもなく北海道の人々のように接しやすくもない。盛岡でも青森でも通常な教会は組織されていない、なぜならどちらの場所もまだ独自の牧師を支援することができないからである。しかし、日本基督教会の憲法によるところの講義所(礼拝所)であって、何人かの伝道者たちによって通常の信仰共同体であることが中会に報告されている。このようにして、信者たちは確かに組織された独立教会を保持している。それらは一般的に教会と呼称されているが、建築的にはそれらは単に「講義所」(礼拝所)に過ぎない。
青森の人々の特徴は盛岡の人々との比較において、事業、政治、宗教などすべてにおいて不活発である。そしてキリスト教だけでなく、仏教に対しても同様であるが、あらゆる宗教的な問題に無関心である。さらに言えば、信者たち自身はキリスト教徒になっていることに満足しているようであって、他の人々のために伝道する必要性を感じていない。これらのおだやかな信者たちの多くは現在の信仰に留まっている。活動的なキリスト教徒ではないが、花巻の人々のように棄教をするわけではない。伝道成果は過去何か年の成果よりも期待ができる。と言うのは、特に学生たちがキリスト教(信仰)に興味を持っているからである。
(註1)全国で開港場として外国人が居留できたのは、函館、築地、横浜、川口、神戸、長崎、新潟の7港であった。
(註2)日本プロテスタント教会の最初の教会であるに日本基督横浜海岸公会は日本で最初に行われた初週祈祷会(1860年(明治5)3月10日)でブラウン、バラ両宣教師によって洗礼へと導かれた若い侍たち(9名)によって生まれた。その場
所は日米和親条約を交渉した条約館、トリティー・ハウスから100mも離れていなかった。
(註3)「the Catholic name“The Church of Christ in Japan”」これが意味する「日本基督公会」という名称は、唯一、普遍的な公同教会を意味している。この公同教会とは、初代教会の伝統を引き継ぎ西方教会の流れをくみ普遍的教会を意味している。中世のカトリック教会から、宗教改革によってプロテスタント教会が誕生したが、カトリック教会と同様に公同教会である。(宗教改革は初代教会の伝統を受け継ぎながら、しかも改革された(革新された)プロテスタンティズム(信仰啓蒙運動)をプロテスタント教会は見出すことになった。プロテストとは、「抵抗する」という意味である)。
(参考)宗教改革500周年と新潟開港150周年を覚えて『宗教改革からのメッセージ』(改訂版)~プロテスタンティズムがもたらした教会改革と近代社会の形成~白砂誠一著(銀河書籍)2020年。
(註4)日本基督新栄公会(日本基督教団新栄教会)のこと。(註5)公会は“Church”の日本語訳であるが後の日本語訳の「教会」と同義語である。日本基督公会に属する公会は弘前公会、東京新栄公会、横浜海岸公会、信州上田公会、大阪公会、神戸公会、備前長崎公会である。1872年3月10日日本基督公会がJ. H. バラが創立。この公会は無教派主義的な教会として日本に一つなる教会を目指して設立されJ. H. バラとS. R. ブラウンの協力により展開された。
(解説)
この度、翻訳した『アメリカ改革派教会の北日本伝道(記録)』の原書であるE.R.ミラー著「アメリカ改革派教会の北日本伝道」(上)~E Rothesay Miller;”Sketch of the North Japan Mission”1901.NEW YORK(R.C.A)(Ⅰ部/Ⅱ部)~は、日本の明治初期の海外の宣教師、おもにアメリカ改革派教会のミッション(R.C.A)による北日本における伝道記録である。具体的には、横浜、東京、千葉、信州、新潟、東北などの北日本におけるアメリカ改革派教会の宣教師たちによる伝道記録である。明治初期に新潟に遣わされたブラウン博士、キダー女史は、アメリカ改革派の宣教師である。そのキダー氏は後に、米国長老教会(P.C.U.S.A)から日本に遣わされたミラー氏と結婚することになる。この時、ミラー氏はアメリカ改革派教会(R.C.A)にその教師籍を移すことになる。その後、ミラー氏は横浜海岸教会、高知教会、上田教会、盛岡教会などの日本基督公会、日本基督一致教会、日本基督教会の所属教会で伝道をすることになる。その伝道記録が”Sketch of the North Japan Mission”1901.NEW YORK(R.C.A)に記されている。今回のⅠ部(序文)とⅡ部(福音伝道の記録)の翻訳の続きであるⅢ部(教育の伝道記録)は会報第5号に掲載予定であるが、そのⅢ部においてはキダー女史が創立したフェリス女学院、ブラウン氏、ミラー氏などが創立した明治学院のミッション教育などについて記されている。また「南日本伝道記録(描写)」”Sketch of the South Japan Mission “1899 NEW YORK(R.C.A.)についても翻訳したいと考えている。
文末になったが、今回の翻訳について述べておきたい。Ⅰ部、Ⅱ部において、必要と思われる用語の註を設けた。また、翻訳本文中で必要と思われる註書きを( )付けで書き込んでいる。ミラー自身が本文(英文)で引用している聖句、新聞記事などは斜体の字で記載してある。また、ミラーの英文は細かく段落が設けられているが、今回の翻訳文では訳者の判断で段落を改めている。尚、原書に添付されてある宣教師、教会などの写真(モノクロ)は誌面の都合で省いた。ミラー宣教師夫妻の写真は、『フェリスのあゆみ』年表と写真でたどる150年(フェリス女学院)2020、19頁を参照して頂きたい。誌上に登場する日本人の氏名や日本の地名は関係資料を参考にして訳しているが、不明な名前や地名はカタカナ名で訳している。
参考文献:『日本基督教会史』山本秀晃編集(日本基督教会事務所発行)1929、『信州教育とキリスト教』塩入隆著(キリスト新聞社)1983、『西日本伝道の隠れた源流ヘンリー・スタウトの生涯』G・D・レーマン著峠口新訳(新教出版社)1986、『夜が明けるまで』―南長老派ミッションの宣教の歴史。J.A.カグスウェル著/真山光彌・浅若佐・西田スヱ子訳(新教出版社)1991、『日本基督教団青森松原教会百年史』1991、『長老・改革教会来日宣教師事典』中島耕二・辻直人・大西晴樹共著(新教出版社)2003、『長崎教会の草創期(上)―「受洗者名簿」1873年~1888年―西豊著(キリスト教史談会パンフレット⑳)2003、』『日本キリスト教団下ノ橋教会120周年記念誌 河畔の十字架』2007、『日本キリスト教団下ノ橋教会年代順教会員名簿』(2006年12月31日付・作成:白砂誠一)『二つの福音は波濤を超えて 十九世紀英米文明世界と「日本基督公会運動および対抗運動』棚村重行著(教文館)2009、『AI時代のリベラルアーツに向けて』敬和学園大学長・山田耕太著(敬和カレッジ・ブックレットNo.25/敬和学園大学創立30周年記念)2021など。
白砂誠一(キリスト教史学研究家)記
<編集後記>
新潟居留地研究会・会報第四号をお届けする。今回は、今年9月17日(金)~18日(土)にかけて敬和学園大学(山田耕太学長・新潟県新発田市)で開催される全国大会 第13 回全国外国人居留地研究会 2021 新潟大会(新潟開港150周年記念・主催:新潟居留地研究会)を覚えての二つの発表を記載している。
第一部は鈴木孝二氏に北越学館について、去年の11月に敬和学大学で発表された講演について記述して頂いた。新潟大会の当日の発表とともに読んで頂ければと思う。
第二部も今回の新潟大会を覚えて、小生(白砂)が新潟にアメリカ改革派教会の宣教師として派遣されたキダー女史と結婚することになる(同改革派)宣教師であるミラー氏による『北日本伝道記録(描写)』である。この記録はアメリカ・ニューヨークで発行されていて、日本におけるアメリ改革派教会の重要な伝道記録になっている。今回はその前半部分の翻訳のみになっていて新潟でのブラウンとキダーとによる伝道については後半部分に記述されている。ただ、今回の前半部分で信州上田公会の近くを流れる千曲川(信濃川)の下流にある日本海側の都市として新潟はすでに紹介されている。新潟港に注ぐ信濃川は、その上流である信州では千曲川と呼ばれている。新潟のパーム博士を応援に向かう押川方義が上田信州公会の信者たちを指導していることが記されてある(本誌15-16頁)。上田で伝道活動をしたミラー夫妻(本誌16頁)は千曲川の下流にある新潟でのアメリカ改革派教会による伝道の再開を願っていたかもしれない。
新潟開港(1869年1月1日)から数えてすでに150年が経っているが、その開港に伴う外国との交渉によって文明開化が新潟県にももたらされてきた。その新潟における近代化の研究を目的とした新潟居留地研究会が発足されたのは、2018年7月10日であった。ここに、それまでの経緯を記録として留めておきたい。その前年、日本基督教団村上教会で伝道牧会の責任を担っていた小生が東京で開催された築地居留地研究会に出席した際に、水野雅夫氏(理事長)から新潟にはまだ居留地研究会がないことについて尋ねられたことが発端だったと覚えている。そして、翌年の5月10日に開催した日本基督教団村上教会伝道開始140周年記念式典に同研究会理事の中島耕二氏が出席された際に、新潟開港150周年にあわせて居留地研究会の立ち
上げてはと打診された。実は、小生の方でも、すでに、近隣の方々に新潟開港150周年を覚えて
居留地研究会の発足の件について相談をしていたが、具体的な展開を見出せないでいた。だが、
翌月に新発田で開催された朝祷会(朝祷会全国連合)に出席して、この件について出席の方々に
提案させて頂いた。その場に出席していた山田耕太敬和学園大学学長をはじめ守弘士郎氏、川村
邦彦氏に小生の意向に賛同してもらえた。同年7月10日に敬和学園大学学長室で、築地居留地研究会の水野氏と大島氏を立会人
にして発足出来たのである。(学長室で記念写真、左から守弘氏、山田学長、水野氏、大島氏、白砂)。
文末になったが、ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。事務局(2021.7.31)記。
新潟居留地研究会 会員名簿 2021年4月1日現在
① 山田耕太 〒957-8585新発田市富塚1270 0120-26-3637 敬和学園大学学長 会長
② 守弘士朗 〒957-0061新発田市住吉町5-5-11 0254(26)1694 教会役員
③ 川村邦彦 〒951-8068新潟市中央区上大川通り7-1235-5-904 090(9743)4034
④ 白砂誠一 〒943-0841上越市南本町2-13-15 025(522)2306 日本基督教団正教師
事務局会計会報発行人
⑤ 村山久夫 〒948-0065十日町市高田町3-304-2 090(2672)1155 教会役員
⑥ 青柳正俊 〒940-2315長岡市七日町2107 043(48694250 国立歴史民俗博物館研究員
⑦ 中村敏 〒950-2076新潟市西区上新栄町6-14-14 0257(260)2949 前・新潟聖書学院院長
⑧ 小林敏志 〒950-2174新潟市西区五十嵐三の町西6-7 025(8261)0535 キリスト教史学会会員
⑨ 田中 勝 〒950-0011新潟市東区向陽3-1-4 025(250)9131 会社役員
⑩ 鈴木孝二 〒950-3126新潟市北区松浜3-7-10 025(258)2086
新 潟 居 留 地 研 究 会 規 約
(名 称)この団体は「新潟居留地研究会」とする。
(所在地)この団体を次の所在地に置く。新潟県新発田市富塚1270 敬和学園大学
(目 的)新潟居留地研究会は、新潟県の近代化に大きな役割を果たした「新潟居留地」を主題にして、その成果を
発表(出版)することによって新潟県の歴史・文化の再発見及び向上に寄与することを目的とする。
(構成員)この団体は、第3条に記した目的に賛同する会員によって構成する。
(役 員)この団体は次の役員を置く。・会長(代表者)1名 ・事務局 1名 ・会計 1名
(運 営)団体は年に1回、定期総会を行い、その年度の会計決算・集会報告などを承認するとともに、新年度の活動計画
などを協議する。その議事は出席者の過半数の同意をもって決定することとする。
(財 務) 団体の活動のために、入会希望者から入会金ならびに会員から年会費を徴収することとする。会見担当者が適正
に管理するとともに定期総会に報告して承認を得ることとする。
第8条 (改 正)この規約は構成員の過半数の同意をもって改正することができる。
第9条 (設立年月日)2018年7月10日(平成30年7月10日)
第10条 (規約施行日)本規則は2021年4月24日(令和3年4月24日)より施行する。
新 潟 居 留 地 研 究 会 会 員 募 集
新潟居留地研究会は、新潟県の近代化に大きな役割を果たした「新潟居留地」を主題にして、その成果を発表(出版)する事業を行うことにより、新潟県の歴史・文化の再発見及び向上に寄与することを目的としています。
会長 山田耕太敬和学園大学学長
事務局 〒943-0841 新潟県上越市南本町2-13-15白砂誠一
電話/FAX 025(522)2306
メールアドレス muracami0354@gmail.com
入会手続 下記の会費(入会金と年会費)を振り込み際に、振り込み用紙に
氏名、住所、電話番号をご記入下さい。
折り返し同研究会の会員要項と研究会の開催案内を送付します。
会費 入会金:1千円 年会費:3千円
振込口座は下記の通りです。
(口座)ゆうちょ銀行
記号 11210 番号 41367371 (普通)
名義 新潟居留地研究会
会場 敬和学園大学 https://ja-jp.facebook.com/keiwacollege/
活動 研究発表報告会(年2回程度) 会報発行(年2回)
全国大会 第13 回全国外国人居留地研究会 2021 新潟大会(
(新潟開港150周年記念・主催:新潟居留地研究会)
日時:2021年9月17日~18日 於:敬和学園大学/月岡温泉(26頁参照)
参考 新潟歴史博物館サイトhttp://www.nchm.jp/(みなとぴあ)
活動紹介 FACEBOOK“新潟居留地研究会”を検索して下さい。
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